【江戸時代】の検索結果
RE: https://libera.tokyo/@padda/116004667754896718
そういう点、江戸時代から1ミリたりとも成長していないんだな。
浅草寺や江戸時代の区画から馬車鉄道から路面電車の流れ、日本初の地下鉄と東武鉄道の隅田川越え、常磐線の混雑と常磐新線計画…… などなど……
大橋を通る国道118号・121号が下野街道(会津西街道)になったのは明治時代の会津三方道路事業以降で、江戸時代当時の下野街道は銀山街道同様の経路で湯川左岸に出た後材木町などを通って氷玉峠・大内宿方面に向かっていた。
もしかして、会津若松の南と西をショートカットする需要がそれなりにあったから、下野街道を大橋経由にしてしまったことでこの道路が必要になったとか?
RE: https://mi.kuropen.org/notes/adsh3trxzh
会津若松市のデジタルアーカイブによる江戸時代の町割り
https://adeac.jp/city-aizuwakamatsu/top/topg/aizu-map/index.html
ここで「融通寺町」と書いてあり、そこから西の柳原町を通って、柳津町の軽井沢銀山に向かう道が銀山街道、現在の県道59号である。
一方、明治41年の地図には、斜めの道が引かれており、「新道」と明記されていることから、この頃に作られたものと思われる。
https://adeac.jp/city-aizuwakamatsu/catalog/mp500270-100050
RE: https://mi.kuropen.org/notes/adsgqhdhzf
若3-273号線って県道59号会津若松三島線「銀山街道」から斜めに突っ切って、県道211号西若松停車場南町線「城南通り」に出る一方通行路か。
藩政時代はこのあたりは武家地で道路は存在せず、明治時代になってから作られたと思われる。おそらく何らかの道路計画で短絡線として作られたものか(城南通りからさらに直進すると、江戸時代から存在した国道118号下野街道の「大橋」にぶつかるので)
@sonic88510@misskey.niri.la すごく詳細な説明ありがとうございます。
世論は室町時代も、範囲の広い狭いとか幕府との力関係の強い弱いという量的な違いだけで江戸時代と同じく政権に影響を与えうるものとして存在していたってことですね
選挙がない世界でも民主主義の度合いってのがあるなと思ってて、たとえば室町幕府と江戸幕府では江戸幕府のほうがずっと民主的なんよね。江戸時代には世論があった。
足利義満が日本国王名乗って明と朝貢貿易はじめたとき、幕府内では異論もあったみたいだけど少なくとも世論が反発して注視に追い込まれるみたいなことはなかったじゃない。
でも江戸幕府がアメリカと条約結んだら、江戸時代は世論があったから世論が沸騰して中止どころか倒幕まで追い込まれちゃった。
地方の場合、江戸時代以前の既成市街地を避けて鉄道が敷設されたり、広域連絡を重視した線形になっているという場合、鉄道徒歩圏に繁華街がないため自家用車のほうが優位になっているというケースもあるしなあ…
会津若松などもそう。広域連絡を考慮すると郡山と新潟を結ぶ最短ルートからは会津若松市街地は外れている。最大限市街地に近づけた結果磐越西線はスイッチバック構造となったが、それでも会津若松駅の位置は中心市街地にはあたらない。
電源管理なんかのOSより低いレイヤーにいる子達もそうだしPID制御なんかも頑張ればAIと主張できそうなので、現代での生活を全て捨てて山奥で江戸時代みたいな暮らしをするのであれば行けるのかもしれない




✅






